F1チャンピオンドライバー紹介!過小評価され続けた男デイモン・ヒルその①

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好きなF1ドライバーはと言われるると、アイルトン・セナの名前を挙げる人が

多いと思います。

当然、僕もその一人なのですが、もう一人とてつもなく好きなドライバーが

いるのです。

正直、F1デビュー当時は速いとも強いとも思わなかったドライバーだったのですが、

何か興味を惹かれる存在だったのです。

そのドライバーが、『デイモン・ヒル』です。

アイルトン・セナ、ミハエル・シューマッハに比べると見劣りしてしまうのですが、

デイモン・ヒルもこの2人とまともに戦い、勝利し、チャンピオンを獲得しています。

今回は、デイモン・ヒルがどんなドライバーだったのか、詳しくご紹介します。

目次

1.デイモン・ヒルとは

2.初優勝からチャンピオン争い

3.まとめ

1.デイモン・ヒルとは

デイモン・ヒルの父親もF1ドライバーでチャンピオンでもあるグラハム・ヒル

です。

父もF1で大活躍していたこともあり、平穏で裕福な生活を送っていたのですが、

飛行機事故で父を亡くしてしまいます。保険に加入していなかったため、同乗者

への補償金の支払いなどで生活が一気に困窮してしまいます。

ですが、父と同じレースへの道をあきらめきれず、デイモン・ヒルはアルバイトを

しながらレースへの道を歩むのでした。

レース活動を開始した当初は、4輪ではなく2輪レースに参戦しています。

1980年にデビューし、4年でクラブマンカップ350ccクラスの

チャンピオンになります。

翌1985年から本格的に4輪レースに転向し、F3やF300といったカテゴリー

に参戦しますが、チャンピオンになるこはできませんでした。

各カテゴリーでチャンピオンになれなかった彼が、1991年にF1の名門チーム

ウイリアムズのテストドライバーに起用されます。

そもそもなぜ、実績もなく名門チームのテストドライバーになれたのでしょうか。

前任者が他のF1チームに移籍するという情報を聞きつけて、ウイリアムズチームに

電話をかけたそうです。チーム№2のパトリック・ヘッドに電話をかけ直接アピール

したのです。ダメもと的な状況だったので、まさかヒルも採用されるとは思って

なかったのでしょう。

自分の状況を変えるために行動するというのは必要です。待っていてもチャンスは

逃げていきます。デイモン・ヒルはそのチャンスを自ら行動し自らの手で掴んだの

です。

僕も今、自分の夢に向かって新たなるチャレンジを継続中です。

前までは夢とか願望とか考える余裕もなく、社畜のような生活をしていました。

帰っては寝て、起きては会社に行く。常に頭で考えているのは会社のこと。

休みでも考えるのは会社のことで夢について考える時間もありませんでした。

ようやく自分で行動を起こすチャンスを掴み、今は夢に向かって頑張っています!

話をデイモン・ヒルに戻しましょう。

ウイリアムズチームのテストドライバーとしてテスト走行を繰り返し開発作業を

進めます。この経験がのちの大活躍を生むことになるのです。

そして、ウイリアムズチームの開発作業を進めてながら、遂にF1デビューを

することになるのです。

1992年のスペイングランプリで初めてF1にエントリーしたのです。

父グラハム・ヒルも所属した名門ブラバムチームからのエントリーとなりました。

しかし、この名門チームも深刻な資金難からチームスタッフへの給料の支払いも

ままならず、チームの存続が危ぶまれる状況でした。

マシンの競争力に欠けていて予選落ちの連続でなかなか決勝レースに進めません。

ですが、母国イギリスグランプリで初めて予選を通過し、ようやくデビューを迎えたのです。

そのデビュー戦で見事完走を果たすのですが、チームもギリギリの状況でした。ついにハンガ

リーグランプリで活動を休止してしまうのです。

以降1992年はヒルもレースに出場することはありませんでした。

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2.初優勝からチャンピオン争い

1992年といえば、圧倒的な強さを見せてナイジェル・マンセルがドライバーズ

チャンピオンを獲得しました。

この最強マシンを開発した男がデイモン・ヒルでした。

1993年は、前年の2人のドライバーがそろってチームを離れたため、テスト

ドライバーのデイモン・ヒルがレギュラードライバーに昇格することになります。

正直、この時点での僕は『誰だろう』と思いました。

そして、初めてデイモン・ヒルという人物を見たときに、何かに惹かれたんです。

レースで結果も残していない彼に魅力を感じたんです。

インタビューに答える温厚そうな性格と、優しそうな笑顔に惹かれました。

その瞬間から、デイモン・ヒルの大ファンになり、常に彼を応援していました。

ヒルはチームの期待に応え、ドライバーとしての経験を積んでいくと、次第に

アラン・プロスト相手に互角のレースを見せるようになります。

第11戦ハンガリーグランプリで初優勝を挙げると、次戦ベルギーグランプリ、

イタリアグランプリと3連勝しました。一気にチャンピオン候補に浮上したのです。

結果、シーズンを3位で終えることになるのですが、デビューイヤーとしては十分すぎる

活躍をしたのです。

翌1994年は、デイモン・ヒルとって辛いシーズンとなりました。

アイルトン・セナのチームメートとして、ウイリアムズより参戦するのですが、

あのサンマリノグランプリでアイルトン・セナが事故死してしまうのです。

その出来事によりヒルは、エースドライバーに昇格します。

今までアラン・プロストやアイルトン・セナといった絶対的ドライバーがいた

ため、過度なプレッシャーを感じることがなかったのですが、エースとして

チームを引っ張っていく立場になったのです。

エースドライバーになった当初は、プレッシャーにおしつぶされているなという

印象がありました。しかし、プレッシャーにも打ち勝ち、途中3連勝を達成し

1994年は最終戦までチャンピオンを争います

この1994年は、ミハエル・シューマッハがとてつもなく速く、ついていける

ドライバーがいませんでした。

ヒルも開幕当初は、シューマッハについていくことが出来ず、負け続けていました。

しかし、ここからがヒルの強いところです。

開発能力がものすごく高かったのです。当初はシューマッハーについていくことが

出来なかったマシンを、チャンピオン争いが出来るまで速くすることができたのです。

そして、周辺の助けもありました。ナイジェル・マンセルです。

マンセルはフランスグランプリにスポット参戦していました。

そのときウイリアムズチームはマシンのセッティングに対してヒルの意見を聞いて

いなかったのです。

それに気づいたマンセルが、ヒルの意見を聞き入れるようにチームに進言しました。

結果、予選1位、ポールポジションの獲得です。

ヒルは強く速いマシンを作り、仕上げることもできる能力を持っているのです。

そして、ヒル自身がチャンピオン候補に、シューマッハのライバルに躍り出たのです。

最終戦オーストラリアグランプリでシューマッハの優勝か、ヒルとシューマッハ

の両者がリタイヤするとシューマッハのチャンピオンが決定する状況でした。

この2人がレースを引っ張り、ファステストラップを出し合いながら3位以下を

どんどん離していきます。

しかし、シューマッハのミスから2人は接触し両者リタイヤとなってしまいます。

僕の見た感じの意見ですが、シューマッハはリタイヤ覚悟でヒルにぶつかったように

見えました。両者がリタイヤすれば、シューマッハがチャンピオンになれるのですからね。

やはり、クラッシュでチャンピオンが決まるというのは後味が悪く、見ていてモヤモヤ

します。正々堂々としたレースでチャンピオンを決めてもらいたいものです。

3.まとめ

ここまでのデイモン・ヒルの評価はとにかく低いです。

ウイリアムズチームのテストドライバーからレギュラードライバーに昇格し、

マシンが速いから勝てる、ウイリアムズチーム以外では活躍できないというのが

彼に対する評価です。

それは、1994年にチャンピオン争いをしても同じでした。

ミハエル・シューマッハーが3戦の出場停止となったおかげで、チャンピオン争いを

繰り広げているというのが大方の見方でした。

ですが、シーズン開幕当初は追いつくこともできなかったシューマッハーとまともに

戦えるマシンを作り上げてきたのは、間違いなくデイモン・ヒルの実力です。

次回は、チャンピオン獲得からその低評価を覆した活躍をご紹介します。

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