F1の悲劇~1994年F1サンマリノGPの呪われた週末~①

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僕もF1史上最悪の悲劇について少しづつ触れていくことにしました。

そうです、あのグランプリです。

『1994年サンマリノグランプリ』

あの多くの事故がおき、F1安全神話が完全に崩壊したレースです。

あれほどの事故が多発したレースも他にないと思います。

今回は、1994年のサンマリノグランプリを紹介します。

目次

1.サンマリノグランプリについて

2.サンマリノグランプリの悲劇:最初の事故

3.サンマリノグランプリの悲劇:第2の事故

4.まとめ

1.サンマリノグランプリについて

1981年から2006年まで開催されたF1レースが開催されていました。

『なぜ、2006年までなのか?』

それをちょっと説明します。

サンマリノ共和国の名前になっていますが、実際にはイタリア『イモラ』

という街で開催されています。

イタリアでは別に『イタリアグランプリ』も開催されていて、年間2回

レースが開催されていました。

国際自動車連盟(FIA)が『1か国・1レースのみの開催』を決めたので、

この『イモラ』で開催される『サンマリノグランプリ』の中止が決まったのです。

サーキット名は、

『エンツォ・エ・ディノ・フェラーリ・サーキット』で、

フェラーリの創業者と息子を記念してサーキット名がつけられました。

サーキットが出来たころは

『アウトドーロモ・ディーノ・フェラーリ』でしたが

1989年の創業者のエンツォ・フェラーリが死去したことから、現在の名前に

変更されました。

このサーキットはフェラーリ系のサーキットということになります。

なのでレースの時はフェラーリの旗とか、応援アイテムで溢れかえります。

そのフェラーリの熱狂的なファンを『ティフォシ』と呼びます。

イタリアでF1といえばフェラーリです。フェラーリを応援することが最大の楽しみ

なのです。F1マシンが近づいてくるにつれて、応援アイテムのエアホーンの音が

徐々に近づいてきます。なので、目を閉じていてもフェラーリが来たことだけは

わかるんです。

しかも、『ティフォシ』の声援を受けながら走ると、ラップタイムが速くなる

というドライバーもいました。その熱い声援がドライバー達を後押ししてくれて

いるのでしょう。

こんな熱狂的なファンの目の前で、F1グランプリ史上最悪の事故が起きて

しまったのです。

1.サンマリノグランプリ:最初の事故

1994年のサーキットはところどころ補修の跡がありました。

その補修されているところをマシンが通過すると、火花が上がるんです。

マシンと路面がぶつかり火花が上がるのですが、それだげ段差があるという

ことです。

僕は観戦しながら、

『火花がかなり上がっているけど大丈夫?』

と思いながら観戦していました。

時速300km/hで走行するのです。少しの段差でもその衝撃は激しいので

マシンへの影響がとても気になりました。

そして、運命のグランプリが始まります。

金曜日のフリー走行。ここで最初の事故が発生します。

ジョーダンチームのルーベンス・バリチェロのマシンが宙を飛び

クラッシュするシーンが飛び込んできました。

時速225km/hでシケインコーナーの侵入したのですが、オーバースピード

でした。コーナーの縁石にタイヤを乗り上げてコントロールを失ったのです。

宙を飛んだままタイヤバリアに激突し、その衝撃で気を失いました。

マシンは、フロントノーズから垂直に地面に叩きつけられ、横転を繰り返しながら

裏返しになって、ようやく止まりました。

バリチェロはマシンと地面に挟まれた状態でとても危険です。すぐレスキューが

駆け付け、5分後に救出、応急処置がなされました。

あれだけの大クラッシュで、『鼻骨骨折』だけで済んだのは不幸中の幸いとも

言えるかもしれません。

またバリチェロは、マシンが1回転しているときに、腕で頭を守るしぐさもして

います。その腕もギプスで固められましたが、気を失って無意識にとった頭を守る

行為が『これだけのケガ』に済んだ要因かもしれません。

翌日の土曜日には、サーキットに元気な姿を見せ、皆を安心させてくれたのでした。

この事故を見たセナは、明らかに動揺していました。

『F1は安全である』

しかし、セナの思いとは裏腹に事故が続いていたのでした。

2.サンマリノグランプリ:第2の事故

そして次の日、あってはならない事故が発生してしまいます。

『ローランド・ラッツェンバーガー』

この名前を聞いたことはあるのでしょう。

1992年と1993年に全日本F3000というカテゴリーに参戦し、日本に

なじみのあるドライバーでした。

日本では『ラッツェンさん』と呼ばれ、優しい笑顔でいろいろな人たちから

慕われ愛されていました。

そんな彼が、やっとの思いで手に入れたF1のシート。

1994年第2戦は日本のサーキット英田で行われました。ここで初の

予選通過を果たし、決勝も完走していたのです。なじみ深い日本でデビューそして

完走を果たしたのです。

1994年サンマリノグランプリ。

運命のレースを迎えます。

予選2日目にまたしてもとんでもない映像が飛び込んできたのです。

高速コーナーでフロントウイングを失い、そのままコンクリートに激突したのです。

この映像は衝撃的でした。

ドライバーを守るためのマシンも右半分がえぐり取られた状態だったのです。

強度の高いカーボン製のボディに穴が開きドライバーの体が見えました。

それだけの強い衝撃だったのです。

マシンが停止した瞬間、ラッツェンバーガーの首が振り子のように動いたのを

今でも覚えています。

『これは・・・
かなりまずい状態だな』

素人目に見てもわかるくらいの状況でした。

ピクリとも動きません。最悪の状態です。

レスキュー隊による応急処置の後、すぐ病院に運ばれましたが、あの衝撃での

内臓破裂などでほぼ即死状態でした。

『ローランド・ラッツェンバーガー死去』

このニュースが流れ、皆が涙したのです。

マシンのフロントウイングがなぜ外れたのでしょうか。

事故の前の周回で、コースアウトしていました。その時にフロントウイングを

痛めてしまい、そのまま交換せず走り続けたことで外れたと考えられています。

『あのとき、フロントウイングを交換していれば・・・』

チーム関係者はこう思ったに違いありません

やはりF1マシンは繊細なのです。300km/h超えるスピードで走るので

少しでも異常を感じたら、命を守る行動をすべきなのです。

ラッツェンバーガーはこのサンマリノグランプリの後に恋人と結婚を約束して

たのです。

自分の夢を叶え、最愛の人と過ごす最高の人生を過ごすはずっだった

『ローランド・ラッツェンバーガー』

それを知った僕はまたしても涙してしまったのです。

4.まとめ

2日連続で重大事故が発生し、その一つは死亡事故につながってしまいました。

『ここまで事故が重なるもんなのか』

こう思いながらレースを見ていました。

『たら・れば』になってしまいますが、このレースを中止するという決断が

この時点でできれば、翌日の事故は防げてたでしょう。

そして、5月1日の決勝レースを迎えることになります。

決勝レースについては、また後日紹介します。

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